年間1239件。
何の数字だと思われますか?
これは薬の「副作用」が原因で起きた死亡事故の総数です
(2001年厚生労働省発表)。
この数字はあくまで死亡事故だけに限ったもので、薬剤による病気や後遺症、さらには市販薬についてはカウントされていません。また副作用による死と断定するためには、よほど明確な根拠がなければなりません。
これらの点を考慮すれば、実際の数字はものすごいものになることが十分予想できるのです。ある研究者は、年間の交通事故死者数の5倍、約5万人が薬の副作用により死亡していると指摘しています。
『アメリカ医学会誌』(1998年)によると、「薬の副作用」による推定死亡者数は10万6000人、死亡原因としては心臓病、ガン、脳血管障害に続き、第四位にランクされているのです。
脅かすようで正直イヤなのですが、こうした事実の伝達があまりに少な過ぎるように感じるのです。メリットばかりが強調されて、デメリットがきちんと伝えられない、これを本当にフェアな態度と言えるのでしょうか?
サプリメントも同様です。「○○に効く!」についてはよく耳にしますが、「××という副作用がある!」についてはほとんど聞くことがありません。さまざまな被害の実態は私たちの耳には届きにくいものなのです。
いいことばかりは続かない・甘い言葉にワナがある、そういうことを私たちは子供の時から教え込まれ、肝に銘じているはずです。にも関わらず、「効果がある!」と言われれば疑うことなく飛びついてしまう・・・。メリット・デメリットを慎重に見極めない限り、重大な結果を招くことにもなりかねないのです
「医療は進歩してきた」、よくいわれる言葉です。しかし現実はどうなのでしょうか?
なぜこれだけ病人が溢れているのでしょうか?生まれてくる子供の3人に1人はアレルギーといわれるのはどうしてなのでしょうか?なぜ国民の医療費は30兆円を越えているのでしょうか?なぜ人口減少に反比例して20年後には100兆円を越えてしまうのでしょうか?これらの状況を「進歩」と呼べぶことが果たしてできるのでしょうか?
そもそも「医療の進歩」とは病気を治すことではないはずです。
医者にも・クスリにも頼らない生き方こそが「医療の進歩」の名に値するのではないでしょうか?
「運命の分かれ道・・・」
医者通いとクスリ依存の人生を選ぶのか、それとも自らの体の能力を高め、医者いらず薬いらずの日々を送るのか?本来備わった能力を低めてしまうのか、それとも高めていく方のか、その選択でもあるのです。
医者にもクスリにも頼らない、ナチュラルライフに必要なことは一体何になるのでしょうか?
それは
□明確な判断基準を持つこと
□判断基準を元に
知識を体系化すること
この2点に集約されるのです。
私たちナチュラル・ハーモニーは20年以上にわたり、肥料も農薬も使わない自然栽培の野菜を追求し続けてきました。
農薬も肥料も使わないことは「農学」の「非常識」といえるでしょう。しかしたとえ「非常識」であったとしても、実際には貧弱どころか立派な作物ができる。この事実は「農学」という学問体系を覆す農法ということができるのです。
なぜこの栽培が可能なのでしょうか?
その秘訣はというとズバリ!その考え方にあるのです。
それが何であるかというと、「自然界は寸分の狂いもない」このことを理解できるかどうか、全てがここに賭かっているのです。この原則さえ分かれば、あとは方法論になります。
土は完全である、作物は完全である、自然界とは完全である、だから人間は余計なことをしない、これが大原則になります。
人間の打算で「より速く!より多く!」を土と作物に効率を求めれば、結果として虫や病気といった無理が生じてしまうのです。その打算は、肥料と農薬に象徴されるのです。
野菜も人も同じ生命体、植物にとっての肥料は人間にとってのサプリメントに該当します。農薬は漢方薬を含めた薬に当てはまります。
野菜も人も同じ生命体、だからこの原則は生きとし生けるもの、すべてに共通するのだと私たちは考えています。自然界について学ぶことは、この汚染時代を生き抜くための大きなヒントになるのです。
つまり
「自然を知ること」は「不自然を見抜くこと」に他ならないのです。
大自然を師とし判断基準とする生き方を体系的に学ぶこと。その際、学ぶべき具体的対象は生命の根幹である「食」と「生活環境」の自然を学ぶことにあるのです。その結果として、医者にも薬にも頼らない暮らしのあり方が見えてくるのです。
「知識のこまぎれをいくら集めても判断は生まれない」
「学習とは自分で自分の体系を作る努力である」
むのたけじ 『詩集 たいまつ』より

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