「科学的」という言葉に、私たちは弱いようだ。
自分は詳しくないから・・・
難しくてよく分からないし・・・
でも専門家がいっているのだから・・・
と思考を停止させてしまう。
「科学的」、そして「専門家」という言葉には絶大な効果があるようです。
疑問から始まる
かつて地球は天と地に分かれていると考えられ、丸いとは誰も思ってもいませんでした。また太陽が地球の周りを動いていると考えられ、地球の自転などはあり得ないことだったのです。
科学が人類に与えた恩恵は計り知れないものがあります。誰かの思いつきや空想によるのではなく、専門家によって実際に証明された事がら。ワケの分からぬ迷信の呪縛から私たちを解き放ち、正しいものの見方へと導いてくれる。科学の科学たる由縁はその「実証性」にある、だから私たちは絶大な信頼を寄せているというわけです。
漠然と信じられている事がらに対して、「本当にそうなの?」と疑問を持つこと。そして「実際はこうなんじゃないの?」と仮説を導き、証明する。それを科学的アプローチというわけです。
科学が成立する大前提
そうした科学なのですが、見逃すことができない前提があります。それは科学とは「分かるものだけに答える」というもの。分からないものは無視してよく、答える必要がない。あらかじめ設定した問題に対してのみ答えを出すのが科学です。もっと言えばこの前提がない限り、成立しない学問というわけです。分からないものが分かったら、答えは当然変化するというわけです。
「農学」で考えてみましょう。土に養分は存在しない。だから植物の三大栄養素、「窒素・リン酸・カリ」の肥料を与えなくてはならないとされています。でもこれでは肥料を使わない自然栽培を説明することはできません。さらに、野山の草がなぜ茂るのか?岩肌にしがみつく松がなぜその場所で生き続けられるのか?これらを説明することはできないわけなのです。
確かに肥料を使えば作物は速く、しかも立派に育ちます。虫や病気に見舞われても農薬を使えばそれで済みます。これで胃袋を満たすだけの最低限のものはでき上がるというわけです。でもそこでは作物の安全性や地球環境への影響は考慮されていません。科学の前提に則り、野山や岩肌の松が育つ理由は無視して良い。それが前提となるからです。つまり農学とは「いかに速く、いかに効率よく生産するか?」、この問いに答えるだけの学問に他ならないのです。
肥料も農薬も使わない自然栽培は「作物は肥料で作るっていわれているけど、本当なの?」と問うことから始まった農法なのです。
かつて「栄養学」において、植物繊維は胃や腸で消化できないから、何の意味もないとしていました。今では “積極的に摂るように!”と手の平を返しています。アスベストであっても、かつては厚生労働省のお墨付きが与えられていました。そして人類は病原菌との戦いに「勝利した!」と信じられていますが、薬剤耐性菌の前には手をこまねいたまま。負け続けているのが実情です。「科学信仰」、そんな風にいわれたりもしますが、思った以上にもろい基盤の上に立っているといわねばなりません。
真の科学的態度とは?
私たちが食や生活環境を自然にする目的は、医者やクスリのお世話にならないことにあります。現代医療は確かに事故などの急性症状には「有効」です。でもガンやアレルギーなどの慢性症状に対しては、はなはだ「無力」といわねばなりません。「医療の進歩」が叫ばれますが、病気を作り、症状を深刻化・難治化させている事実は、もはや隠しきれないまでになっているのです。現代医療は病気の症状をすべて「悪」としています。そこではいかに対処し、いかに撲滅するかがテーマです。そして現代医療はその矛盾の解決と医療自身の生き残りを賭けて遺伝子組み換え技術などの、バイオテクノロジーに委ねようとしています。それを私たちが本当に望むのかどうか、疑問が尽きません。
これに対して私たちが取るべき態度は、「病気の症状は本当に悪いものなの?もしかしたらそれにも意味があるのでは?」と問うてみることにある。そこれこそが真の科学的態度といえるのではないでしょうか?
「科学が成し得てきたこと、そのすべてを否定するものではありません。でも知り得ているのはごく一部に過ぎないのも事実なのです。それはあくまで「従」の位置、「主」は自然界の摂理にこそあるのです。不安が渦巻く今だからこそいま一度立ち返りたい、自然を知ることは不自然を見抜くこと。あなたの五感をリセットし、新たな視点を獲得する10時間半のセミナー。」
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