アトピーやアレルギーに向き合う生き方。本物の野菜・玄米の見分け方  体験談

医者にも薬にも頼らない  アトピーに向き合う生き方 編

出して出して、 出し尽くすんだ!

~ 濡れ続け、震え続けた   270日間の「アトピー」   との闘いを支えたものは? ~


自然食業界に10年、 でも重度の「アトピー」。 それが私だったのです




こんにちは!

私はこのサイトを作成した、ナチュラル・ハーモニーの磯野正弥と申します。


私は21歳でアトピー性皮膚炎を発病して以来、12年間あらゆる治療を行ないました。"良い"といわれればすぐに飛びつき、後悔とあきらめ、そして自分の境遇を嘆く日々を重ねてきました。最終的にはステロイド剤の常用、しかも強力なものを塗り続けることで"問題の先送り"を続けてきたのです。


「自分は一生薬漬けだ、こんなことをしていたらいずれ重大な事態が訪れる。自分は長く生きられないかもしれない・・・、でもこんな毎日ならそれで良いのかもしれない・・・」、私を支配し続けてきた思いはこうしたものだったのです。


2003年から私はほぼ寝たきりの状態になりました。理由はすべての薬をきっぱりと断ったことが理由です。炎症を抑えるステロイド剤と12年間付き合ってきたのですが、すべてをやめ、自分自身の治癒力、私の中にある生命力、これにすべてを賭ける選択をしたのです。その間は辛い毎日でしたが、私を支え続けたのは自然栽培のお米と野菜たちであったのです。


このページは「理論編」と「体験談」とで構成されています。




私たちが本来の健康を「医療行為」の名の元に、医者任せ、薬任せにするのではなく、私たちに中、内側にこそ真の解決がある、こうしたことを考える一助になればと思います。


病気と体の関係、食べることの意味、そして薬に頼らない暮らしのあり方。こうした生き方を模索する皆さんの参考になれば嬉しい限りです。



その始まりは・・・
私は現在の勤め先である、2003年7月に入社しました。

その前は大手の有機野菜宅配団体に勤めていましたが、ナチュラル・ハーモニー代表の河名との出会いがすべてを変えました。


自分が売っているものは「本物」ではない。「有機野菜」という称号だけで良し悪しを判断してはならない。そしてそのクオリティーが分からないまま人に薦めることはできない。知っていながら、薦めることは重大な裏切り行為に他ならない。「本物を目指すんだ!」と心に誓い、転職を決意したのです。


しかし私のカバンやポケットには常に薬(ステロイド剤)が入っていました。転職して1週間を経った頃から体中におびただしい水泡が発生し、どうにもならない状態となりました。


2003年8月に入ってすぐ「体調不良」を理由に早退した日から約270日に及ぶ闘病が始まりました。炎症を抑えるため「ステロイド剤」を12年に亘り使い続けてきたのですが、2004年の7月にきっぱり薬をやめる決意をし、そこから約270日間の寝たきり生活を余儀なくされたのです。


その間は本当に辛い毎日だったのですが、私を支え続けたのは「自然栽培のお米と野菜」だったのです。



12年間との決別
前職では営業という仕事、さらには"自然・安全・健康"を謳っていることから自分がアトピー性皮膚炎の患者であることを隠し続けてきました。薬が強力なこともあってか、病気であることをあまり知られることはありませんでした。私はこの病気を隠し続けてきたのです。それが薬が効かなくなってきた、ちょうどそのタイミングでナチュラル・ハーモニーに入社したのです。


私の仕事は個人宅配事業を立ち上げること。代表の河名からは「この野菜を全国に届けたい。磯野には個人宅配の責任者になってもらうぞ」と言われていました。入社の段階で症状は抜き差しならない段階にありましたが、「ええい!あとは野となれ山となれ!」、こうして私は個人宅配を立ち上げることを職務に入社しました。そしてあまりにも早くその時は訪れたのです。



すべてを賭けて
水泡が発症した段階で、私は決意していました。以後、薬は一切使わずに自分の中の治癒力にすべてを賭けること。自分は薬を使うのに、農薬も肥料も使わない野菜を人に勧めることはできない。たとえどんなことがあっても自分は耐え抜いてみせる。


自然栽培の生産者である木村さんのリンゴの木も肥料を辞めてから7年間は一度も実を付けなかった。それでも今はこんなに素晴らしい実を付けているではないか。たとえ時間がかかっても、必ず良くなる。畑から蓄積した肥料成分を抜く、自然栽培を志す農家が始めに取り組む課題ですが、私も長年蓄積した薬を身体から抜く決意をしたのです。


ナチュラル・ハーモニーでは働けなかったけど、自分の自然治癒力にすべてを賭けてみよう。いつの日か、必ず元気になってもう一度入社のお願いをしよう、私の気持ちは固まっていました。



代表の河名は「磯野、良かったな。この仕事はキレイな身体にならないとできないということだよ。個人宅配は磯野の復帰を待ってからにしておくから、この機会に全部出しちゃいな。」、そう言ってくれたのです。入社後2週間で就業不能なら退職するのが"世の常"のはず・・・。それが「全部出しちゃいな!」なんて・・・。


私はこの言葉に戸惑いと感動を覚えながら。一切の「無投薬治療」を開始しました。



夏の終わり
季節は「夏」。冷夏とはいえ、恐ろしい寒さとおびただしい水泡に震え続ける日々。「この先どうなるんだろう・・・」、止め処もない不安と苦痛が私を襲い始めました。2003年の夏は、こうして過ぎて行ったのです。



深刻化に向かう
「9月に仕事に戻る」、そう決めて1ヶ月耐えていたものの、症状は深刻さを増していきました。水泡はひどくかゆいので、掻くとそこから水が流れる。水の量は日を追うごとに増えていきました。


今まで薬で固めていたものが、薬を放棄した段階から堰を切ったように体外に流れ始めたのです。8月は出てくる水の色が透明だったのですが、この頃になると黄色に変わり始めました。


「蓄積してきた薬剤などの異物が出始めた」と河名から言われました。血と共に流れ続ける日々。水が乾くと固まって薄皮となる。体を動かそうとすると傷口とその薄皮に引っ張られ、ものすごく痛い。そうするうちに徐々に身動きが取れなくなっていきました。



消耗の日々
首は水が溜まり、ブヨブヨと3段首のようになってきました。足首は通常の3倍くらいに膨らみはじめました。鈍痛に襲われ続けているので足を高く上げることで痛みを緩和し続ける毎日。


顔は眉の上に水がたまり、ちょっと表現しがたい、"お岩さん"のようになっている。流れた水が固まって目が開かなくなる。口の下はザックリ割れはじめ、そこから毒血が流れ、やがて固まっていく。口も目も開かない、何をするにも不自由な状態になっていきました。全身ほぼ同じ状態になっていきました。


腎臓病、「ネフローゼ」のような症状。辛い毎日でしたが、気づきもありました。皮膚がものすごく柔らかくなっているのです。ほんの少し引っかくだけですぐ水が流れるのです。これは異物を体外に出すための作用で、全身一丸となって、「出すんだよ」という合図をしているのではないかと思っていました。しかし体力も気力も落ち始め、憔悴していく毎日だったのです。



主食の意味
「磯野の今の仕事は食べることだぞ!」と河名から何度も言われていたため、必死に食べ続けました。また『買ってはいけない』の著者・環境臨床医の三好基晴先生から「辛くても何でも、とにかく食べろ!
吐いてでも食べろ!」と電話で厳しく言われました。無投薬で自然治癒力にすべてを委ねる以上、体力がすべて。だから懸命に食べ続ける日々が続きました。


私たちの身体は、炭水化物を取ることで必要な栄養分を体の中で作ります。「主食」の米はその材料です。米を媒介に体内でブドウ糖に作り変え日々の「活動源」にしているのです。ですからクオリティーの高いお米を食べることは、良い水を飲むこと、自然に呼吸すること、よく眠ること、これらと同じように本質的で根源的な営みになるのです。


「おかずはいいから米だけは何が何でも食べろ!」、この言葉のままに河名が定期的に送ってくれる自然栽培のお米を食べ続けた日々。傷と皮が突っ張った状態で、背中を伸ばすことは辛いことでしたが、丸まった背中と腰で何とか台所に立ち続けました。


割れた口の下は開くたびに裂け、そこから血が流れる。何とか口を開き、泣きながらお米を食べ続けた日々。ほとんど開かない口だったため、食べ終わると周りにご飯粒がたくさん付いているような有りさまでした。食べることはものすごく辛いことでもあったのです。


「米や野菜がなくなる前に必ず言えよ。この場合、一切の遠慮は罪だからな」、河名は私にそう言ってくれ
ていました。私は自然栽培の米と少しの野菜を食べ続け、そのことで自分の治癒力を含めた生命力を引き
出すことに賭ける、こうした選択だったのです。



迷いの中で
この間、多くの親しい人から「とにかく放っておくのはまずい。病院に行け!」とか「そんな状態で1人でいるのは無理。両親に話しなさい」と、忠告を受けていました。


しかし私はこの症状に1人で耐え続ける決意でいました。確かに両親にすべてを話して、炊事・洗濯から解放されたらどれだけ"楽"になるだろうか・・・、心の中に「迷い」も生じました。しかしこんな状態を両親が見たら何が何でも病院に連れて行くだろう。母親に涙ながらに説得されてしまえば、覚悟が揺らいでしまうかもしれない。「黙ってみていろ!」、それは私の両親にはあまりに酷だと思ったのです。こう考えると、「たとえどうなっても、最後まで1人でやり抜く」、そういう強い気持ちが湧き上がってきました。



目の前に置いた薬
私はこの治療を自分の体を使った「実験」と考えていました。12年も薬を使い続けたにも関わらず一向に良くならなかった症状。これがどうなっていくのかを耐え続けることで確かめたかったのです。そしてもし元気になれたなら、肥料も薬(農薬)も使わない「野菜」を売る資格を与えられるのだろう、そんな風に感じていました。


しかし実際は余っていた薬を目の前において、これを塗りさえすればたとえ"一瞬"であってもどんなに楽になるだろうか・・・。あと2時間頑張ったら塗ってしまおう、今日までは頑張って「明日になったら」、そうやって何とか繋いでいく毎日でした。



先が見えない
「この先、何年もこのままかもしれない・・・」、ゴールの見えない闘病は尽きることのない不安との闘いでもありました。


生産者の木村さんのリンゴだって肥料をやめてから真っ二つに裂けた木があったではないか?今の自分はその状態で、もう少しすれば必ずよくなっていく。そう自分に言い聞かせてみる。でも木村さんのりんごの木は7年もの間、実をつけなかった。果たして自分はあと7年も「耐えきれるのだろうか・・・」、もう一人の自分がすぐに打ち消そうとする。

それでもすべてを賭けて始めたこと、そうやって気持ちを整理し、余計なことは考えないように務めました。



快楽と暴風
最大の快楽でもあり、苦痛でもあったのが入浴です。湯船に漬かることは出来ないので、シャワーで突っ張った皮を少しずつ洗い落とす。たとえわずかな時間であっても、あの突っ張り感から開放されるわけですから、これはまさしく"至福の時"。それもつかの間、入浴後には"地獄の苦しみ"が待ち受けているのです。


体温の上がった全身を毒が駆け巡る、そんな暴風に襲われ続けます。この苦しさはちょっと表現し難く、うめき苦しみながら嵐が過ぎ去るのをただ耐え続けるしかないのです。嵐が去った後は疲れ果て、自然と眠りに落ちてしまいます。この恐怖のあまり、短くて2時間、時には4時間も風呂場から出られない日々が続きました。長時間の入浴による脱水症状を避けるため、ペットボトルを凍らせた水を常時4本持ち込みました。「もうダメだ!もうやめてしまおう」、何度そう思ったか分かりません。



生きる力
ある日、会社から送ってもらった自然栽培の野菜、ピーマンとナスがダンボールの中で枯れてミイラ化していることに気づきました。植物の自然な姿に違うことなく身をつけ、やがて枯れていく。これを発見し、手にとってみた時、崩れ落ちるような感動を覚えました。気持ちが弱くなるたびに、この枯れたピーマンとナスを手にとって眺める。すると「絶対に負けない!」、そんな強い気持ちが甦ってくるのです。


また私の部屋にはパキラの木があったのですが、闘病開始からずっと水をあげられずに枯らしてしまいました。どうすることもできずにそのままになっていたのですが、ある朝、芽が出ていることに気づきました。


枯れてしまったこの木の中で一体なにが起きていたのだろう・・・、そこに自分の今とこれからの姿を投影せずにはいられませんでした。この小さな芽は私に何かを伝え励ましてくれている、無条件にそう信じ、必ず自分も元気になれるという確信を強くしたのです。



家族の愛
10月も終わり気温が一段と下がり、寒さに耐えられなくなってしまいました。もはや台所に立つことが不可能になりました。一人での闘病が限界に達したことを認めざるを得なくなったのです。河名に相談すると「それが一番だよ。ここまで頑張ってきたのだからご両親もきっと分かってくれるはず。家族の愛が必要な時が来たんだよ」と賛成してくれました。


母に電話し、思い切ってこの3ヶ月半のことを伝えました。母は涙声でしたが、治療に関しては一切口を出さないことを約束してくれました。一方、父は複雑な思いがあったようですが、同じように約束してくれました。こうして私は横浜の両親のもとへと戻りました。


私が来るなり床に皮膚が散乱しましたが、父と母は日に何度となく掃除をしてくれました。また嗚咽しながら苦しむ自分に対し、何も言わずに身体をさすってくれました。母がある時、「自分の命を賭けてやると決めたこと。このことであなたがどうにかなったとしても、それはしょうがないことだわ」、そんな風に話してくれたのです。 



回復へ
実家ではつらい家事から解放されたこともあってか、心もすごく安定していきました。いつも両親がそばにいて、いろんな話しができることはありがたく、よく眠れるようにもなりました。11月、12月と両親に見守られながら症状は終息へと向かい始めました。やがて散歩ができるようになりました。そしてお風呂から15分で出られた時の歓喜は忘れることができません。


こうして2004年1月の始業から、私は仕事に戻ることができたのです。そして個人宅配「ハーモニック・トラスト」の立ち上げに向けた準備が始まったのです。



その朝のこと
2004年1月4日出社の朝。闘病前、わずか2週間しか働いていない私にとっては、この日は事実上の「入社式」と言うべき日でもありました。河名から「闘病」の最初に与えられたテーマ、「この仕事は体がキレイにならなければできない」、そのひとつの過程を終えて半年振りに出勤しました。


河名と久し振りの再会、私を見るなり「よくやった!」と抱きしめてくれました。そして「磯野は賭けだった。もし万が一のことがあれば、この事業も何もすべてが終わりになりかねなかった」、そのように私に言いました。あんな状態になりながらも薬も与えず、病院にも行かせなかった事実。マスコミに格好の話題を提供することにもなりかねず、事業が継続し得ない事態も覚悟したと話すのです。


自分を襲い続けた激しい症状のあまり、正直、河名が自分の事業を含めた人生のすべてを賭けて見守り続けてくれていたこと、河名の胸の内をこの時になるまで気づきませんでした。自分のことしか考えていなかったと反省する気持ちと言葉では表現できない感謝の気持ちが沸きあがりました。恥ずかしくも忘れられない大切な出来事。



ハーモニック・トラストの立ち上げ
私の復帰と同時に個人宅配「ハーモニック・トラスト」の立ち上げに向けた準備が本格的に始まりました。「病気は怖い、でも薬はもっと怖い」、そんな闘病を終えた私は「本物」だけを全国の方々にお届けしたい。自然栽培の野菜と天然菌のものだけに絞って、「これが本物だ!」と胸を張って言えるものだけを扱いたい。


たとえ無農薬であっても肥料を入れた野菜は一切扱いたくない!しかし現実の自然栽培の野菜は季節による入荷の不安定さや一時に集中する在庫、さらに野菜の品目も極めて限られているといった具合に越えなければならない壁が目の前に存在していました。


それぞれのご家庭の食卓に思いを馳せると「有機」のものも一部扱わざるを得ないのではなかろうか・・・、こうして頭を抱える日々が続きました。



縦木と横木
そんな折、むのたけじの詩集をめくっている時にこんな一節と出会ったのです。「家の柱を見れば縦木と横木がそれぞれ独立しながらもしっかりつながれ、家を支えている」、そうだこのイメージを具体化できないものだろうか?立場が違えども、暮らし手・作り手・そしてこの両者を繋ぐ流通がそれぞれの役割の中でしっかりと繋がり、支えあうイメージ。


「ハーモニックトラスト」のコンセプトはこうして決まったのです。そして3月の初回のお届け、22人の会員さんと一緒に始まったこのトラストは、桜が咲く頃には50名の仲間を迎えるまでに成長していきました。



そしてまた

無事離陸できた喜びも束の間、再び試練の時が訪れました。4月に入ると再びものすごい悪寒に襲われ、以前のあの反応が始まったのです。この間、三好基晴先生や河名からも「第二波が来るよ」と予言の如く言われていました。


仮に1回の排毒ですべて出し切ったとすれば体力が持たずに死に至ってしまうそうなのです。こうしたことを身体はきちんと知っていて自然に調節する。一波、二波、三波といった具合に間隔を置いて訪れるそうなのです。それぞれに間隔があり、その間に体力の回復を待ち、次の波が訪れるそうしたすごい仕組みが備わっているそうなのです。



2度目の闘病
そうして私にとって2度目の闘病が始りました。立ち上げたばかりの「ハーモニック・トラスト」、ここから離れざるを得ないことは断腸の思いでありました。無念さと桜が咲き乱れる中での闘病開始。頭では分かっていてもどうすることもできないイラ立ち。


「何で自分ばかりがこんな目に遭うのだろう」、自然と浮かぶこの思い。この世の春、そんな風に何となく浮かれて見える季節とは裏腹にどこまでも沈んでいく自分の心。そして再び訪れた身体の苦痛。しばらくは両親にも言えず、一人でいましたが次第に身体の自由を失っていきました。こうして再び横浜の実家へと戻りました。
 

「苦難のある人に贈る」

前回はまったく初めてのことで、まさに無我夢中。今回は二度目、すでに経験済みのことである程度の"耐性"が備わっていることを感じていました。厄介なのは「無力感」。会員さんは喜んでいてくれているだろうか?会社のみんなには迷惑をかけていないだろうか・・・。どうにもならないことを思い続ける。


2度目の排毒はこうした自分の心のあり方に向けた試練であると感じていました。それでも2ヵ月半くらいで症状が収まり、6月の半ばくらいには会社に戻ることができました。嬉しい気分もつかの間、復帰して1週間も経たないうちに恐ろしい寒さと身体の症状が始まったのです。そしてまたしても仕事を離れざるを得なくなりました。



何度でも 
自分はこの繰り返しの中で生き続けなければならないのだろうか?責任を持って仕事に取り組むことはできないのだろうか?こうした思いに心が覆われてしまうのです。激しく落ち込む中、河名から連絡がありました。


「さぞや落ち込んでいるだろうな。今回の復帰は排毒の一時的な休憩だったと思えば良いんだよ」、そう言ってくれました。自分の苦しい胸の内を話すと、「迷惑かけているなんて余計なことを考えるなよ。今は身体からの反応に従っていればいい。社長の俺が言っているんだから余計な心配は一切無用」、そう言ってくれたのです。


そして8月1日、3度目の復帰。河名は「よくがんばったな。磯野には困難に真っ直ぐ向き合うことの大切さを教えてもらった。これから先、いつ倒れても、何度倒れても構わないからな」。私を信じて変わらぬ態度で待ち続けてくれた河名への感謝の気持ちが込み上げました。そして自分は"世界一の幸せ者だ"と強く思いました。



命の洗濯
こうして約270日にわたる私の「闘病」が終わりました。その後は元気に働いています。つらくて厳しい毎日でしたが、振り返ればわずか270日のこと。終わることなく訪れる痒くて辛い症状、一生手放すことができないと思っていた薬、常に余裕のなかった自の心。これらと分かれることができた喜びは命をもう一つもらったとしか言いようがありません。


それまでの12年間の苦悩、薬漬けの日々から卒業するための"命の洗濯"がこの270日間 であったと感じています。



最後に
私がこの苦しい闘病で学んだことは「生命とは本来的に完全である」ということです。問題は生命そのものが持つ力を高めていくのか?それとも低めてしまうのか?このことに尽きるのではないかと感じています。


身体には本来の状態に戻そうとする力が備わっている。病気の症状とはそのために必要な過程で、辛いからといって薬で抑え込むことは"問題の先送り"に過ぎないのではないかと感じています。たとえ時間がかかったとしても、根本的な解決は「身体の防衛力」を高めることでしかないと感じています。


私の薬歴、そしてこの間の排毒はまさにそのことであったのです。この長い文を読んでくださった皆さんが毎日の暮らしや実際に病気に直面した時に、少しでもこのことを思い出して頂ければと願うのです。病気に頼らない生き方、病気や症状と今までとは違った角度で向き合うことができるのではないかと思うのです。


肥料も農薬も使わない野菜やお米、そして本物の発酵食品を食べることは、完全である身体の能力を高め、本来の力を発揮させていくことに他なりません。それらを少しずつでも身体に入れることの意味、これからもこの「ハーモニック・トラスト」を通じて多くの方に伝えていきたいと思っています。


これまでとは違った食や医療のあり方、さらには家族が元気に生きるための一助になればと心から願います。


私の個人的な長文を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。



「闘病余話」
ここまでの内容はナチュラル・ハーモニーの個人宅配「ハーモニック・トラスト」の会報で5回にわたって連載したものでした。


連載終了後、多くの方から「今の状態を詳しく教えて欲しい!」とか「どんな食事をしているのか?」といったありがたい質問をたくさん頂きました。そこで、本編では触れられなかった内容を「総集編」と題してお届けします。



発熱が転機
実は8月に3度目の復帰をしてから、しばらくは不安定な状態が続きました。時折、凄い寒さに襲われたり、軽い発疹が出たりという状態だったのです。転機は10月の頭に訪れました。それは40度の熱が10日間続いたことがきっかけだったのです。


鼻水と痰が続き、高熱にウナされ続けました。それは苦しいことだったのですが、よくよく思い返してみれば、40度の熱が出るなんてことは記憶がないのです。そんなことがあったなというくらい、久しぶりの出来事だったのです。特に薬を使い続けてきたこの12年間は熱が出たとしてもいつも微熱。すごく熱が出にくい体質だったというのが偽らざる感想です。



熱が出るくらい元気になった!
そして熱が下がってからは、不安定な状態は本当になくなってしまったのです。悪寒や発疹といったことはまったくといって良いほどなくなりました。


熱が出ている間、河名からは「磯野も熱が出るくらいまで元気になったんだなぁ」と言われ、また三好先生からは「アトピーは熱が出るようになったらほぼ大丈夫。今後は半年も寝た切りになるようなことはないでしょう」と言ってくださいました(「発熱」については前回の三好先生のコーナーをご覧下さいね)。



私の食生活
私はお米を日に4合食べます。もちろん自然栽培のお米です。お昼に弁当を広げると周りからは「何度見てもすごい!」とよく言われます。河名からは「世界で一番自然栽培米を食べる男」と言われたりもしています。おかずは本当に少しだけ、味噌汁は毎日朝と晩に飲み、「蔵の里750g」を1ヶ月で2パック使いきっております。外食はほとんどしません。


以前はお酒も飲んでいましたが、今は飲めません。すぐに頭が痛くなったり、飲めば戻してしまうことが分かり、「こんな苦しい思いをするくらいなら」とまったく飲まなくなりました。これも身体が"清まった証"であると自分では思っています。お茶もよく飲みますが、すべて自然栽培のものです。何だかトラストの宣伝?そんな感も拭えないのですが、すべて事実です。



父の断薬
「闘病」を過程で、もう1つ嬉しいことがありました。私の父は30年来、睡眠薬を飲み続けていたのですが、私がもだえ苦しみながら必死に耐える姿を見て、「睡眠薬をやめる」と宣言してくれたのです。


父は睡眠薬の副作用に悩んだ時期もありましたが、完全に薬断ちをすることができたのです。父いわく、「自分は絶対睡眠薬なしでは眠れない」といった暗示を自分でかけていたようだと言っていました。今は定年4年目、第二(?)の人生を料理に見出し、"男の料理教室"なる講座に通っている模様です。



健康は1日にしてならず
闘病12年、どんなに願っても、何をやっても手にすることが叶わなかった健康のありがたさを今は日々かみ締めています。感じることは「健康は1日にしてならず」、このことです。その思いから日々の食事や生活環境には注意を払い続けています。もちろんすべての薬剤や栄養補助剤の類は一切使っておりません。

今後ともこの「ハーモニック・トラスト」の会員の皆さんとともに、私自身、元気に、そして健康に、与えられたこの生命を燃焼していきたいと思います。


       
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磯野さんの手記のコメント その2 臨床環境医 三好基晴先生
 




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